『下関市史』現代編の宗教寺院法華宗の項に、護國寺について次のように書かれています。

 「新町二丁目にある。明治九年、西端町の人玉江利兵衛を開基とし、明治十三年知玄院日諦上人を請じて開山とした。利兵衛はのちに出家して善済院日成と改め、第二代住職となった。」

開基玉江利兵衛の肖像
  大変簡単な内容ですが、護國寺の創立のいきさつを、上手にまとめています。

 伊藤房次郎(現在唐戸町にある亀屋薬局の先々代店主) が、昭和十六年に発刊した『関の町誌』には

 「・・・有名なかねたまさんを出して居る。かねたまさんは、この本行寺の檀家であったが、後、田中町に護國寺を建てたものだから、今でも護國寺はかねたまさんで通て居る。元来の家業は醤油屋であったが、後には相場を本職のようにして居られた」と書いています。
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 この文章は、護國寺の開基となった玉江利兵衛の姿をおぼろげに伝えていると同時に、旧い檀家が護國寺のことを「かねたま」と呼んでいる理由を図らずも説明しています。かつては玉江家はその屋号を、「玉 (かねたま)」と称していました。

 その玉江利兵衝は平素から信仰の念の厚い人で、日蓮宗の教義に心から敬服し、出家得度して自分自身が日蓮宗の教えを広めることを熱望していました。

 明治の初め、利兵衛は玉江家に後嗣として養子利平を迎え家業を譲り、自身は西端町から上田中町の現在護國寺のある所へ転居し、ここに草庵を建立して仏道の修行に専心するようになりました。

 そうした利兵衛の熱心な修行ぶりに心を打たれ、次第に草庵には仏の教えを求め慕う人々が多く集まりはじめ、明治九年に入って、宗門の各関係に日蓮宗寺院としての認められるための手続きを開始しました。これが現在の護國寺の始まりです。

 それ以来、利兵衛は自分が仏道の師と仰ぐ日蓮宗本山誕生寺の住聴山本日諦上人を招き、その草摩を仏道修行の道場として位置づけることに成功しました。

第一世日諦上人の肖像
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 そうした運動が実を結び、明治十三年四月十九日付けで仏乗山護國寺の寺号が正式に認可され、翌年の明治十四年一月に、利兵衛は日諦上人に得度を受けて出家、善済院日成と名を改めました。

 その同じ年の明治十四年二月七日、本山から日成師に対して住職としての許可、教導職試補訓導としての認可が出され、日蓮宗の布教とともに、護国寺の基礎固めに一層のカを尽くして行きました。

 そうした日成師は、現在の寺域内に私財を投じて、幅四間、奥行七間の本堂と幅二間、奥行三間半の庫裡を建立、明治十五年十二月二日に五十三歳で入寂しました。

日成上人の建立した本堂と庫裡
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 日諦上人を開山、日成師を開基とする所以はここにあります。

 その頃、境内には見事な花をつける藤があり、「かねたまさんの藤」として近隣の人々に知られていました。

下関の名物だった「かねたまの藤」
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 明治十六年、第四世住職として就任した吉田日昌講師のとさ、護國寺の檀家信徒の数は飛躍的に増加し、さらに第五世の西嶋文明師を迎えると寺の勢いはますます伸展、それに比例して本堂、庫裡の規模も手狭になりました。西嶋文明師は、そうした実情を檀家信徒に訴えて拡張計画を立案、その実現に踏み出しました。

第四世吉田日昌上人の肖像
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 日成師の建設した旧堂宇は解体され、昭和四年四月に幅六間、奥行七間銅板葺の本堂が建設されました。

 この改築に要した経費は一万五千円、さらに昭和六年九月には五千余円をかけて延面積六十五坪二階建ての庫裡が造営され、平成の現状とほぼ同じ境内の様子となりました。境内域はおよそ六百余坪(約二千平方メートル) で、新しく納骨堂も併設されました。

納骨堂竣工記念(大正十年)
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 なお、厚狭郡埴生 (現在の山陽町埴生)、当時はまだ市域外だった小月、彦島、幡生などには説教所が設置され、教義普及のための第一線施設とされました。

 現護國寺の基磋を確立した第五世住職西嶋文明師は、山口県吉敷郡井関村 (現在の山口県吉敷郡阿知須町) の出身で、明治三十三年六月二十四日に、福岡県八幡市の龍潜寺で高橋日慈師に得度を受けました。その後、明治四十二年に静岡県田万郡錦内村にあった唯円坊の住職、山口県厚狭郡埴生村の日蓮宗寺院住職に就任、そして大正八年三月六日に護國寺の住職として迎えられました。

 護國寺にはいくつかの寺宝が伝わっていますが、なかでも大切なものの一つに、清正公堂に祀られている加膝清正公の木像があります。この木像は、かつて豊前國中津城内に安置されていましたが、幕末廃藩のとき、第一世日成師が松平家に懇請して譲り受け、護國寺へ勧請したという由来のあるものです。なお、現存の清正公堂は、第四世吉田日昌住職在任中の明治三十一年四月に建立されたものです。

 昭和初年の護國寺の記録によれば、布教活動の一環として村雲婦人会、下関仏教婦人会、護國少年修養会などの組織運営があり、檀家の展りは下関市内及びその郡部、さらに福岡県にまで及び、その数も三百戸を上回る数に達しています。なお、その当時の寺総代には玉江利平、矢野助次郎、筒井安吉、増田安平などの名が掲げられています。

村雲日浄尼公猊来山記念(大正初年)
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 護國寺中興の祖といわれる第五世西嶋文明上人は、昭和十四年九月、五十三歳で入寂、その後、護國寺は満州事変、支那事変、太平洋戦争、そして敗戦という日本の歴史的背景・・・それも悲難に満ちた時代を双肩に負いながら、伝教の砦を経営して行くこととなりました。

中興の祖第五世西嶋文明上人の肖像
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 第六世として住職に就任したのは西嶋日義上人、第七世住職は吉本日仁上人、またその第六世を懸命に支えた西嶋妙精尼によって激動の時代を乗り越え、昭和二十四年七月、第八世として現院主の西嶋覚音上人を迎えました。

西嶋妙精尼の肖像
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 覚音上人は福岡県嘉穂郡穂波村天道の生れ、平成九年九月の住職退任まで四十七年間に亘って護國寺の経営と布教に専心し、現在の隆盛を迎える礎を築き、現住職第九世西嶋好文上人へと法燈を伝達しました。

第九世西嶋好文上人の住職承認書
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 その護國寺に『法難』にも譬えるべき試練が襲ったのは、昭和二十年八月のことでした。太平洋戦争の敗色も濃くなるにつれて、関門地域にも米機による空襲の頻度が増し、焼夷弾などによる地上攻撃も度重なってきました。関門海峡封鎖の目的で、米機から投下された機雷が陸上で炸裂したのが昭和二十年八月二日、護國寺と至近距離にある貴船町に落下した機雷の爆風を受け、本堂屋根の被覆は全面的に剥離、小屋組も大きく歪み、もちろん隣接する庫裡の屋根瓦も四散、また本堂庫裡共に四周の建具類は全壊する惨状を呈しました。平成の本堂屋根茸替工事の端緒も、実はこの『法難』にあったとも言えましょう。昭和二十年の、二回に亘る下関焼夷弾攻撃によって焼失した護國周辺の寺院は

  本 行 寺(西之端 法華宗)
  教 法 寺(西之端 浄土真宗)
  引 接 寺(外浜 浄土宗)
  國 分 寺(東南部 真言宗)
  専 念 寺(西南部 時宗)
  永 福 寺(観音崎 臨済宗)
  極 楽 寺(阿弥陀寺 浄土真宗)
  西 谷 寺(西南部 浄土宗)
  法 福 寺(奥小路 臨済宗)
  智 福 寺(園田 真言宗)
  功 徳 院(岬之町 真言宗)

の十一ヶ寺でした。
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 護國寺寺院施設の受難は、その後、平和な時代を迎えても相次ぎ、昭和二十八年の豪雨による裏山崩壊が因での本堂の一部倒壊、平成三年秋の十九号台風襲来による本堂屋根の損壊は、実に甚大なものでした。しかし、その都度、住職を中心に檀信徒一丸となっての努力によって、伝教の砦は修復されつつ平成の大修理を迎えることとなりました。

 閉山日諦上人いらい、現九世好文上人までの護囲寺在籍の住職は、次のように纏めることがでさます。

   仏乗山護國寺歴代住職

     第一世  智玄院山本日諦上人

     第二世  善濟院玉江日成上人

     第三世  慈徳院吉田日昌上人

     第四世  滋徳院吉田日昌上人 (再任)

     第五世  文明院西嶋日種上人

     第六世  稲應院西嶋仁稱上人

     第七世  智妙院吉本日仁上人

     第八世  覺音院西嶋日厚上人 (現院主)

     第九世  妙行院西嶋日道上人 (現住職)
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